「自分の生活全体の目的」と、「自分の生活全体」のあり方
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最終更新日:2015/11/19
単純作業に心を込める
少し前になりますが、これを書きました。
WorkFlowyを使い続けていくうちに自然と浮かんできた、「全体と一部分」「それより上の階層があるか、ないか」ということを考えたものです。
このテーマを、もう少し展開してみます。まずは、抽象方向へ。
「自分の生活全体の目的」です。
目次
1.「生活全体の目的は何か?」という問いへの取り組み
若干恥ずかしい話ですが正直に告白すると、大学生のころ、「生活全体の目的」のことばかり考えていた時期がありました。
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最初は青少年の悩み、みたいなことでした。「人が生きる意味ってなんだろう」とか、そういうことです。
でも、途中から、もう少し実用的な動機に切り替わりました。『7つの習慣』を読んだことがきっかけだと思います。
『7つの習慣』の第2の習慣は、「終わりを思い描くことから始める」です。第2の習慣では、人生全体の目的を常に思い描き、そこから毎日における具体的な選択を下すことの集積が、効果的な人生につながる、とされます。
私は、『7つの習慣』が提案するこの戦略を、とても合理的だと感じました。自分の手持ち資源は、限られています。限られた手持ち資源をどのように活用するかで、人生全体の意義は大きく変わります。人生全体の目的を最初に正しく設定してこそ、限られた自分の手持ち資源を無駄にすることなく、存分に活用しつくすことができるというものです。人生全体の目的を見つけることは、波及効果が高く、コストパフォーマンス抜群の行動だと納得した私は、以後、自分の生活全体の目的を探し求めました。『7つの習慣』の言葉でいえば、「ミッション・ステートメント」です。
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ところが、「生活全体の目的」は、なかなか見つかりませんでした。
抽象的な理念なら、それなりによさそうなものが見つかります。でも、具体的な指針としてはうまく機能してくれません。
たとえば、「自分の力を発揮すること」や「納得して生きること」とかは、わりといい線いっていると感じました。でも、いずれも抽象的で、どんなときに「自分の力を発揮している」と感じられるのか、や、どんなときに「納得して生きる」ことができるのか、と考えると、具体的な指針は得られません。
また、「結局これはトートロジーなのではないか」とも感じました。つまり、どうなれば自分の力を発揮しているのかや、どうなれば納得して生きられるのかを考えると、「生活全体の目的にとって有意義なことに取り組んでいるときに、自分の力を発揮していると感じられる」とか、「生活全体の目的に沿って生きているとき、納得して生きられる」みたいなところに至ります。生活全体の目的は何か、という問いを考えているのに、その答えの中に「生活全体の目的」が出てきては、ぐるぐる回ってしまいます。トートロジーです。
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ある時期は、自分を超える存在に目的を求めたこともあります。社会貢献とか理念への奉仕とかです。誰かのために生きる、とか、人助け、とかでもよいでしょう。
たとえば私は一時期、環境問題に興味を持っていました。その当時、私は自分の人生の目的を、「持続可能な社会の実現」に貢献することだと設定していました。これは、自分の生活全体を超える存在、ここでは「持続可能な社会」を想定し、その存在に貢献することを、自分の生活全体の目的とする、という戦略です。
この戦略は、うまくいきそうに思えました。究極の価値がある程度明確なので、時間、体力、才能など、自分に与えられた手持ち資源を配分するための、ある程度具体的な指針を与えてくれます。また、トートロジーでもありません。
でも、最終的には、うまくいきませんでした。自分の生活全体を、自分の生活を超えた存在のための手段と捉えるような感覚に違和感を覚えたことが、大きな理由です。また、仮に「持続可能な社会の実現」に貢献できたとしても、自分個人の幸せとか納得とかの問題は、依然として残るんだ、という当たり前のことに気づいたからだと思います。この経験から、私は、生活全体の目的を考える際に、自分を超えた存在を前提とすることはやめよう、と決めました。
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その後、いつしか、「生活全体の目的は何か?」というテーマは、私の関心事ではなくなりました。
ひとつには、仕事を始め、結婚し、子どもが生まれ、などの変化によって、生活全体が、大学生のころとは比べものにならないくらい忙しくなったこともあります。そんなことを考えている暇がないのです。
でも、それだけではありません。「生活全体の目的は何か?」ということについて、自分なりに腑に落ちる、ふたつの考え方にたどりつけたおかげだと思います。
ひとつは、ヴィクトール・E・フランクルの考え方です。『それでも人生にイエスという』の中でヴィクトール・E・フランクルは、私たちは人生から問われている存在なのだから、私たちが「生きる意味があるか」と問うこと自体が誤りだ、といいます。さらに、人生が出す問いは、具体的に考えなければ意味がなく、どんな状況でも妥当する一般的な回答をすることはできない、といいます(『それでも人生にイエスという』pp.27-28)。
もうひとつは、西研さんが『実存からの冒険』で紹介していた考え方です。『実存からの冒険』には、「〈そのつどの自分の状況において何ができるのか、何を自分は欲するのか、と問いつつ、それに従って生きること。深い納得において生きようとすること(「生の肯定」)〉」という生き方が示されていました(『実存からの冒険』p.232)。自分が置かれた具体的な条件を既定と捉え、その条件を前提に、自分として具体的に何を望み、自分にどんな具体的なことができるかを考え、手足を動かして具体的な行動をしていくことしか人間にはできないし、それでいいんだ、と納得できました。
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ともあれ、「生活全体の目的」は、一時期の私にとって、大きなテーマでした。そのころの私は、「この問いにうまく答えることができれば、きっとすべてがうまくいくのに」と思い、一生懸命この問いに取り組んでいましたが、なかなかうまく行きませんでした。
2.「全体と一部分」「上の階層があるか、ないか」と「生活全体の目的」
(1) 「全体と一部分」「上の階層がないか、あるか」と目的との関係
さて、WorkFlowyから自然と考えた「全体と一部分」「上の階層があるか、ないか」です。
この「全体と一部分」「上の階層があるか、ないか」は、目的という概念と、深くつながっています。
WorkFlowyの「アウトライン」全体は、それ自体の目的を持ちません。自分の「アウトライン」を前にして、「この「アウトライン」の目的は、一体何なんだろう?」と考えてみても、きっと答えは見つかりません。
これに対して、WorkFlowyの「アウトライン」から切り出した一部分は、目的を持ちます。たとえば、WorkFlowyの一部分をブログ記事として切り出したなら、そのブログ記事は、何らかの目的を持つはずです。「このブログ記事の目的は、一体何なんだろう?」と考えてみることは、大切な意味を持ちます。
では、なぜ、WorkFlowyの「アウトライン」全体は目的を持たないのに、そこから切り出した一部分は目的を持つのでしょうか。WorkFlowyの特徴である階層構造から見ると、次のようにいえます。
- WorkFlowyのアウトライン全体は、それより上の階層を持たない。
- それより上の階層を持たないから、それより上の階層から目的を与えられることがない。
- だから、目的を持たない。
- WorkFlowyから切り出された一部分は、それより上の階層を持つ。
- それより上の階層を持つから、それより上の階層から目的を与えられる。
- だから、目的を持つ。
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これは、WorkFlowyに限ったことではありません。
全体は目的を持ちません。でも、一部分は目的を持ちます。それは、全体にはその上の階層がなく、一部分にはその上の階層があるからです。
これは、上の階層から目的が与えられるのがよいとか悪いとかいう話ではありません。そうではなくて、目的という概念の意味の問題です。目的とは、いってみれば、自分よりも上の階層とどのような関係を持っているのか、その関係のあり方の話です。だから、上の階層を考えることなしに、目的を考えることはできません。
- 全体
- 上の階層がない
- →目的を持たない
- 一部分
- 上の階層がある
- →目的を持つ
(2) 「生活全体の目的」についての考え方
このことから、「自分の生活全体の目的」を考えると、どうなるでしょうか。
まず、自分の生活の一部分は、「自分の生活全体」の下位階層なので、それより上の階層を持ちます。だから、自分の生活の一部分は、目的を持ちます。
- 自分の生活の一部分
- 上の階層を持つ
- →目的を持つ
これに対して、「自分の生活全体」は、どうでしょう。「自分の生活全体」は、それより上の階層を持つのか、それとも持たないのか。どちらでしょうか。
仮に、「自分の生活全体」が、それよりも上の階層を持つなら、「自分の生活全体の目的」は存在します。これに対して、仮に、「自分の生活全体」が、それよりも上の階層を持たないなら、「自分の生活全体の目的」は存在しません。
「自分の生活全体の目的」が存在するか否かは、「自分の生活全体」が最上位階層であるか否かにかかっています。
- 「自分の生活全体」は最上位階層である
- それより上の階層を持たない
- →目的を持たない
- 「自分の生活全体」は最上位階層ではない
- それより上の階層を持つ
- →目的を持つ
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このことは、私が模索して挫折した、「自分を超える存在に目的を求める」という戦略とつながっています。
「自分を超える存在に目的を求める」という戦略は、「自分の生活全体」よりも上の階層を設定し、その上の階層から、「自分の生活全体の目的」を見い出す、という戦略です。「自分の生活全体の目的」を見い出すには、原理的に、それより上の階層がなくてはならないところ、この戦略は、そんな上の階層として、自分を超えた存在を設定します。
でも、私は、「自分を超える存在に目的を求める」という戦略は取らないことにしました。これは、すなわち、「自分の生活全体」よりも上の階層を設定しない、ということです。「自分の生活全体」が最上位階層であり、それよりも上の階層は存在しない、ということを前提とします。
だから、「自分を超える存在に目的を求める」という戦略を取らないなら、「自分の生活全体」の目的を見つけることは、原理的に、不可能です。
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そこで、「自分の生活全体の目的」については、次の2つの選択肢があります。
- 「自分の生活全体」よりも上の階層を前提として、「生活全体の目的」を見い出す
- 「自分の生活全体」よりも上の階層を前提とはせず、「生活全体の目的」を見い出すことは不可能であることを受け入れる
私は、「自分の生活全体」よりも上の階層を前提としない、という選択肢を選びました。ということは、私が「自分の生活全体の目的」を見い出すことはできません。いくら考えても、どんなに正しい努力をしても、私が「自分の生活全体の目的」を見い出せる可能性は、ゼロです。
私は、いつのまにか、「自分の生活全体の目的は何か?」という問いを考えるのをやめていました。今回、「全体と一部分」「上の階層があるか、ないか」と目的との関係をふり返ることで、私は、こんな自分の態度はそれでよかったんだな、と確認できました。
(3) 全体には目的がないけれど、一部分になら目的はある
と、ここまで書いたことは、「全体」に光を当てていたのですが、他方で、「一部分」についても、ひとつのことが浮かび上がります。
それは、「自分の生活全体」の目的を見い出せなくても、「自分の生活の一部分」の目的なら、どれだけでも見つかる、ということです。
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「自分の生活全体」よりも上の階層を前提としない限り、「自分の生活全体の目的」を見い出すことはできません。「自分の生活全体の目的」を見い出すことができないと言われると、目的もなく目指すべき方向もなく、虚無的に生きるしかないような気もします。
でも、そうではありません。
「自分の生活の一部分」になら、それぞれ目的があるからです。
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『7つの習慣』を読み、第2の習慣を学んだとき、私が抱いたイメージは、次のようなものでした。
- まず、「自分の生活全体の目的」をはっきりと描く。これが究極の目的であり、自分の人生におけるすべての基準となるもの。
- 次に、「自分の生活全体の目的」からのトップダウンで、自分の生活を構成するたくさんの一部分の目的を導く。こうすれば、自分の生活を構成するすべての一部分が、自分の生活全体に統合され、自分の生活全体として、何か偉大なことを達成することができる。
だから、私は、自分の生活を構成するたくさんの一部分の目的を導くためには、「自分の生活全体」の目的をはっきりと見い出す必要がある、と考えていました。
でも、これは逆でした。全体の目的がわからなくても、一部分の目的を見い出すことはできます。一部分はそれより上の階層を持つので、一部分の目的は、その一部分の上に位置づけられる階層との関係で、わりと見い出すことができるのです。
だから、私がすべきだったのは、最初に「自分の生活全体の目的」を見つけようとすることではありませんでした。そうではなく、まずは自分の生活を構成するたくさんの一部分のそれぞれについて、それより上の階層との関係から、その一部分に限った小さな目的を設定することでした。そして、それらそれぞれの一部分について、それらの小さな目的を達成するため、具体的に行動することでした。
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「自分の生活全体」は、たくさんの一部分の集合体です。それは、たくさんの一部分それぞれに対して具体的に取り組んだ結果として、少しずつ現れてきます。
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