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作品群を生み出し続けることの意味

公開日: : 単純作業に心を込める

1.はじめに

私にとって、このブログの意義は、「作品群を生み出し続ける」ということにあります。

  • まず、「作品」を生み出すこと。ひとつひとつの記事を、暫定的であれ、完成したひとまとまりとして仕上げた上で、公開する。
  • 次に、作品「群」を生み出し「続ける」こと。ひとつの作品を作って終わりとするのではなく、個々の作品を大きな集大成的作品のための途中経過と捉えるのでもなく、作品を生み出すことを期間限定の営みとするのでもなく、終わりなく、継続的に、作品群を生み出し続けていく。

これが、「作品群を生み出し続ける」ということです。

「作品」を生み出すという姿勢でブログ記事を書くのは、いつもうまくいくわけではありません。また、どんなにうまくいっても、それなりの時間とエネルギーががかかります。

作品「群」を生み出し「続ける」ことには、終わりがありません。目指すべきゴールもなく、いつまでも未完のまま、だらだらと続いていきます。ときに退屈さを感じることもありますし、「なんでこんなことをやっているんだったけな」とふと自問自答するときもあります。

しかし、少なくとも当面のあいだは、「作品群を生み出し続ける」ということを続けるつもりです。

こう考える理由を、以下、言葉にします。

2.作品群を生み出し続けることの意味

(1) 変化し続ける自分の全体から、一部分を切り出して、固定する

自分は、変化し続けます。子どもも、仕事も、生活も、自分の興味関心も、考えも、変化し続けます。

子どもと一緒に公園で1日遊べば、子どもも自分も、その公園に行く前と比べると、記憶や経験や体力など、何かが変わっています。

新幹線の中で1冊の本を読めば、その本を読む前と比べると、知識や考え方の点で、何かが変わっています。

仕事で何らかの想定外の事態が起きてしまえば、当面は平穏な職場には戻れませんし、子どもがケガをしたり病気になったりすれば、平和な毎日はしばらくおあずけです。

旅行の町並みや自然から受けた感動も、日常に戻ってしばらくたつと徐々に小さくなっていきますし、友人と食事をしながら夢中で話したやりたいことも、一夜明けると半分忘れてしまいます。

変化し続けることは、当たり前です。生きて、生活しているのですから、自分という全体は、絶えず変化し続けます。全然悪いことではありません。

でも、ときどき、これを固定しておきたい、と感じることがあります。

子どもと公園で遊んだ一日のこととか、あるテーマについての自分の考えとか、ゾクゾクしながら読んだ本のこととか、仕事におけるそこそこ手痛い経験から学んだこととか、そういうことを、そのままの形でとっておきたい、と思うことがあります。

生きて、生活して、自分という全体が変化し続けていくのですから、これらも自然と変化していきます。何もしなければ、少しずつ変わっていってしまいます。だから、固定しておくためには、自分という全体から切り出して、全体の変化から切り離すことが必要です。

では、どうすれば全体から切り出し、変化から切り離せるのでしょうか。

私にとっては、文章を書き上げて作品を生み出すことが、このための方法です。本を読んで考えたこと、子どもと公園に行って感じたこと、旅先の街角で見かけた光景など、そのままとっておけたらと思うことを、作品として書き上げれば、自分の全体の中にある一部分を切り出し、固定することができます。

固定すれば、記録になります。時間が流れ、自分の全体が変化しても、あのときはこんなことを考えていたとか、このときはこんなことを大切にしていたとか、そんなふうに固定してとっておけます。

作品群を生み出し続けるひとつめの意味は、変化し続ける自分の全体から、一部分を切り出して固定することです。

(2) 自分の中にある大切なところに、光を当て、かたちを与える

自分の中には、いろいろな部分が存在しています。これまでの人生の時間の中で体験したこと、与えられたこと、鍛えてきたもの、いろいろです。

でも、日常生活をふつうに送っている分には、自分の中にあるいろいろな部分のうち、ほんの一部分だけしか活用しないのが、むしろふつうだと思います。一部分だけしか発揮しなくても毎日の生活が回っていきます。そのため、自分の中にある多くの部分は、活躍の場が与えられないまま、半ば自分自身からもその存在を忘れられています。

それは当たり前なのかもしれません。かえって、自分の中にあるすべての部分を発揮しようとすると、バランスが壊れ、無理が出てしまうかもしれません。ですが、忘れられている多くの部分の中には、自分自身、ほんとうはとても大切にしたいところが残されているかもしれません。

私自身、ふとした機会に、そんな部分に気づくことがあります。たとえば、電車の乗り換え時間に立ち寄った駅構内の本屋さんで、昔愛読していた作家の新作を発見すると、その作家の熱心な読者だった自分と再会できたような気がする、というようなことです。

こんなふうに、自分自身で忘れていた自分の一部分を、「ここにいたんだ」と再発見するのは、なかなかよいものです。こんな体験がたまに訪れてくれたら、それだけで、人生はいいもんだと思います。

だったら、自分の中にある大切な部分との再会をただ偶然に任せて待つのではなく、自分の具体的な行動によって、意図的に引き寄せてみるのも悪くありません。そんな具体的な行動が、作品を生み出すことです。

作品を生み出そうとすると、わりと高確率で、自分の中にある大切な何かと再会できます。私の場合は文章ですが、多分、絵でも音楽でも小物でも料理でも、なんでもよいと思います。試行錯誤しながら、作品というひとつのまとまりを持つものを完成させようとする過程で、自然と、自分の中に残されている大切な何かに光を当て、かたちを与えることになるんだろうと思います。

もちろん、ただひとつの作品の中に、一度に、自分の中にある大切なものすべてを発揮することは、とても難しいことです。でも、生み出す作品の数をひとつに限定する必要はありませんし、作品を生み出す機関を限定する必要もありません。たくさんの作品群を継続的に生み出し続けていけば、自分の中にある大切な何かに対して、その時点で再会できたものからひとつずつ、光を当て、かたちを与えることができます。

作品群を生み出し続けるふたつめの意味は、自分の中にある大切なところに、光を当て、かたちを与えることです。

(3) 自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にする

毎日の生活を送っていれば、多かれ少なかれ、自分が「いい」と思う対象と出会うことができます。

たとえば、昼ごはんに食べたアジフライのサクサク感とか、みんなのうたで流れてた『とろろおくらめかぶなっとう』とか、『ストーリーとしての競争戦略』に紹介されていたスターバックスの戦略ストーリーとか、モリコロパークの愛知県児童総合センターで企画されてたあそびのプログラムとか、そんなささやかなものも含めれば、毎日たくさんの「いい」と思う対象と出会います。

これらと出会ったときに自分が感じる「いい」は、通常、あまり言語化されていません。サクサクでジューシーなアジフライがおいしかった、とか、歌詞の「ネヴァー!」「ギヴァー!」に子どもが喜んでる、とか、スターバックスの出店立地の選び方を面白く思う、とか、いろんな年齢の子どもがのびのびと遊べてて安心できる、とか、まあせいぜいその程度です。

自分がただ感じただけの「いい」なので、別に言語化する必要はありません。ささやかな「いい」であって、毎日たくさん出会いますので、すべてを言語化しようとしていたら、時間がいくらあっても足りません。

でも、ときどきは、自分が感じた「いい」を、改めて自分の言葉で表現してみるといいんじゃないかと思っています。

「いい」を言葉で表現することに対しては、あまり肯定的ではない評価もありそうです。自分自身が「いい」と感じたことが大切なのであって、下手に言葉で表現しようとすると、「いい」感じたことの大切なところがこぼれ落ちてしまう、とか、そういう危惧です。

たしかに、誰かから聞いた、きれいなだけで曖昧なふわふわした言葉で「いい」を表現しようとすると、自分が感じたことからは、かえって離れてしまうこともあるかもしれません。でも、ちゃんとした自分の言葉を使ってうまく表現すれば、単に「いい」と感じていただけのときよりも、もっと深いレベルで、「いい」と感じられることもあります。

この作業をしてみると、「いい」と感じた対象を、なぜ、自分が「いい」と感じたのかを、掘り下げることができます。さらに、これに伴って、その対象を「いい」と思う自分自身に対する理解を、少し掘り下げることができます。「いい」と思う対象を表現することそれ自体も楽しいことですし、「いい」と思う対象を媒介にして自分自身をより深く理解できることも、嬉しいことです。

作品を生み出すことは、多かれ少なかれ、自分が感じた「いい」に、かたちを与えることです。文章という作品なら、自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にすることです。

作品群を生み出し続けることは、毎日の生活の中で出会う「いい」に言葉を与え続けることです。毎日の生活の中にささやかな「いい」をたくさん見つけ、丁寧に掘り下げることによって、自分自身の価値観とか世界観とかに対する理解をひとつずつ深めていくことです。

作品群を生み出し続けるみっつめの意味は、自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にすることです。

(4) 誰かにとっての部品・道具・触媒として機能しうるものを、完成品として公開する

毎日の生活を送っていれば、いろいろなことを知り、いろいろなことを学び、いろいろなことを考えます。本を読んだり、家族と出かけたり、仕事で誰かと打ち合わせをしたり、夕食の準備で野菜を切ったり、そんないろいろなことをする中で、何かを知り、何かを学び、何かを考えます。

そしてたまには、すごくいいことを知り、すごくいいことを学び、すごくいいことを考えることがあります。そんなすごくいい(と少なくとも自分では思える)ことに触れたとき、私は、これが自分自身にとって面白くて役に立つのはもちろんのこと、自分以外の誰かにとっても、きっと、面白く、また、役に立つんじゃないか、と思います。

でも、そのときに何もしなければ、そのいいことは、遅かれ早かれ、自分の中に深く沈み、埋没していきます。ある瞬間に私が知ったり、学んだり、考えたりした、すごくいい(と自分で思う)ことは、私以外の誰からも認識されませんし、それどころか、将来の自分自身からも忘れ去られてしまう可能性が大きいです。

そういうもんだという気もします。が、もったいないような気もします。少なくともたまには、今の自分がすごくいいと感じたものを、今の自分以外の誰かに活用してもらえたら、と思います。

では、どうしたらよいでしょうか。

その、すごくいい(と自分で思う)ことを、作品にして、公開すればよいのです。とりわけ、ブログなら、公開できる作品の個数にも制限はありませんし、公開できる期間の制限もなく、自分がたくさんの作品を公開することが誰かの迷惑となってしまうこともありません。

「誰かにとっての部品となるような完成品を提出する」というのは、倉下忠憲さんによる言葉です。

作品を生み出して公開すること、作品群を生み出し続けて公開し続けることの本質を、とてもうまく表現しているような気がします。倉下さんのいう「部品」は、おそらく、必ずしも完成品を作るために必要な組み込み部位だけでなく、完成品を作るための道具だったり、触媒だったりも含む概念なのかなと思いますので、私はこれを、「誰かにとっての部品・道具・触媒として機能しうるものを、完成品として公開する」と言い換えてみました。

ところで、ここでいう「誰か」とは、「今の自分以外の誰か」という意味ですが、ここには、「今ではない自分」つまり「将来の自分」も含まれます。

どんなにすごくいいことを知り、すごくいいことを学び、すごくいいことを考えても、何もしなければ、残念ながら、そのうち忘れてしまいます。時間の経過によって忘れてしまうようなことは、それまでのものなんだ、と思うこともひとつの考え方です。しかし、そこでもう少しだけ時間やエネルギーを投入し、ひとつの作品へと仕上げておけば、そして、可能ならブログなどに公開しておけば、「将来の自分」という「今の自分以外の誰か」が、そのすごくいい(と今の自分が思う)ことを、部品や道具や触媒として活用してくれるかもしれません。

このように、作品群を生み出して公開し続ければ、誰かにとっての部品・道具・触媒として機能しうるものを、完成品として公開することができます。

作品のかたちに仕上げるには、ちょっとした粘りが必要です。面白いことを知って知的好奇心が満たされる、とか、役に立つことを知って自分の生活の一部分を少し改善する、とかだけで終わらせるのではなく、そこからもう一歩踏ん張って、ひとつの文章を書き上げるための時間やエネルギーを追加する必要があります。

ですが、ちょっと粘って、これだけの時間とエネルギーを追加しておけば、そうして生み出した作品が、どこかにつながる可能性が開かれます。

作品群を生み出し続けるよっつめの意味は、誰かにとっての部品・道具・触媒として機能しうるものを、完成品として公開することです。

(5) 自分にとっても、他人にとっても、価値ある何かを創り出す

「作品群を生み出し続ける」というのは、おおげさな言葉です。自分でもそう思います。

特に、「作品」という言葉。ブログ記事を表現するための言葉としては、「作品」よりも、もっとカジュアルで身近な言葉のほうがふさわしいような気もします。

「作品群を生み出し続ける」とは、具体的にはブログ記事を更新することなのですから、「たくさんのブログ記事を継続的に公開し続ける」でよいんじゃないか、「作品群を生み出し続ける」なんて言葉を使う必要はないんじゃないかと、何度か考えました。

でも、私がこのブログによってやっていきたいことを表現するためには、やっぱり、「作品」という言葉が必要だと思っています。それは、「作品」という言葉に、「自分にとって」と「他人にとって」の両方を大切にする方向を目指したい、という意志を託しているからです。

ブログ記事を書き始める起点は、あくまでも自分自身であるべきだと思っています。変化し続ける自分の全体から一部分を切り出して書き、自分の中に発揮されずに残されている大切な部分に光を当てて書き、自分が「いい」と感じたことについて書くのが、ブログ記事です。自分の外にある価値基準に合わせて書くことも不可能ではありませんが、そうなると、自分がブログ記事を書く切実さが徐々に失われていくように思います。

他方で、独りよがりになりたくない、とも思います。自分が気持ちよればそれでいい、ではなくて、自分が公開したブログ記事を、自分以外の誰かが、部品・道具・触媒として活用してくれたら、本当にうれしいことです。

この両者は、別々の方向を向いています。自分の外にある価値基準に合わせるのではなく、自分を起点とした「自分にとって」意味のあるものを書きたいけれど、他方で、自分以外の誰かから価値を見い出されうるもの、「他人にとって」価値のあるものを書きたい、というのですから。

でも、この両者は、どちらも大切です。「自分にとって」と「他人にとって」の両方を大切にできなければ、どんなものを生み出したって、どこか虚しさが残る気がします。

私のイメージでは、よい「作品」は、この「自分にとって」と「他人にとって」を、うまく両立したところに生まれます。よい「作品」は、自分を起点とする「自分にとって」のところから生まれますが、自分以外の誰かから価値を見い出され、「他人にとって」の価値を実現します。「作品」という言葉で自分のブログ記事を捉えることによって、私も、志としては、こんな方向を目指したいと思います。

「自分にとって」と「他人にとって」の両方を大切にすることは、自分にとっても、他人にとっても、価値のある何かを創り出そうとする、ということにつながります。

倉下忠憲さんがくり返し述べるとおり、価値とは、他人によって見い出されるものです。ですが、このことは、「ある人にとって、ある存在に価値があるかないかは、その人がその存在に価値を見い出すか否かによって完全に決まる」というような、完全に相対的な価値の概念を意味するわけではありません。

もちろん、誰にとっても絶対的な価値がある存在、というものを考えることは難しいです。でも、「自分にとって」を起点としつつも、「他人にとって」の価値を見い出されることを願いながら、自分の「作品」を生み出すことをしていけば、自分にとっても、他人にとっても、価値ある何かを創り出す、ということを、少しずつ進めていけるんじゃないかと思っています。

作品群を生み出し続けるいつつめの意味は、自分にとっても、他人にとっても、価値ある何かを創り出すことを目指すということです。

3.まとめ

以上が、私が「作品群を生み出し続ける」ことの意味です。

  • (1) 変化し続ける自分の全体から、一部分を切り出して、固定する
  • (2) 自分の中にある大切なところに、光を当て、かたちを与える
  • (3) 自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にする
  • (4) 誰かにとっての部品・道具・触媒として機能しうるものを、完成品として公開する
  • (5) 自分にとっても、他人にとっても、価値ある何かを創り出す

こんなことを意識しながら、これからも、ぼちぼちとブログを続けていこうと思います。

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