「しまう」と「響く」
公開日:
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本 「しまう」と「響く」, 『光の帝国』
目次
1.『光の帝国』の「大きな引き出し」
『光の帝国』は、『夜のピクニック』や『六番目の小夜子』が有名な恩田陸による連作短編集です。
内容は、
膨大な書物を暗記するちから、遠くの出来事を知るちから、近い将来を見通すちから―「常野」から来たといわれる彼らには、みなそれぞれ不思議な能力があった。穏やかで知的で、権力への思向を持たず、ふつうの人々の中に埋もれてひっそりと暮らす人々。彼らは何のために存在し、どこへ帰っていこうとしているのか?不思議な優しさと淡い哀しみに満ちた、常野一族をめぐる連作短編集。優しさに満ちた壮大なファンタジーの序章。
という感じです。(「BOOK」データベースより)
『光の帝国』には10個の短編がおさめられており、どれもそれぞれおもしろいのですが、私がいちばん好きなのは、圧倒的に、いちばんはじめの「大きな引き出し」です。
この「大きな引き出し」、物語としてもすごくおもしろいのですが、私にとっては、それ以上の意味があります。それは、この物語に登場した「しまう」と「響く」という概念を知ることで、読書とか勉強とか音楽鑑賞とか人と話をすることとか、もっといえば、体験全ての意味が変わるほどの影響を受けたからです。
「しまう」と「響く」は、私にとってものすごく大切な概念です。
2.「しまう」と「響く」
(1) 「しまう」のこと
「大きな引き出し」の主人公は、春田家の長男光紀くん、小学校4年生です。春田家の能力は、ものすごい記憶力。膨大な書物を丸ごと暗記することは序の口で、現に、小学4年生の光紀くんは、ほとんどの日本の古典を暗記済みです。暗記できるのは、日本語の書物だけではなく、外国語もへっちゃらだし、さらには楽譜を暗記することもできてしまいます。
他方、光紀くんは、日本の古典を丸ごと暗記しているのですが、これはあくまでも丸ごと暗記であって、内容を理解しているわけではありません。おそらく、批判したり、評価したり、検証したり、ということはしないで、とにかく、そこに有るものとして、丸ごと、暗記しているのではないかと思われます。
この、書物などを丸ごと暗記することを、春田家の皆さんは、「しまう」と表現しています。
(2) 「響く」のこと
物語の中で、光紀くんは、「しまう」ことの意味に悩みます。
そして、小学校の担任の先生に、暗記することはすごいことなのかと質問し、「覚えていれば便利だけれど、覚えればいいってものでもない。意味も知らずに丸暗記しても、何かの意味があるとは思えない。」という趣旨の答えを受け取ります。
「意味も知らずに丸暗記」に意味がないと先生に言われて、光紀くんは、心底がっかりします。「しまう」は、まさに、「意味も知らずに丸暗記」なので、全否定された気になったのでしょう。
物語の中では、その後いろいろあって、「しまった」物語が光紀くんの中で「響き」だし、光紀くんは「しまう」ことの意味を理解します。さわやかで気持ちのよいラストシーンがとてもすてきです。
物語の中では、この「響く」は、あたかも自分がその場にいるかのように映像や音声を体験することとして描かれていました。また、別の短編では、自分以外の第三者に、この体験を共有してもらうこともできるように描かれていました。
私なりの理解では、「響く」というのは、「しまわれた」物語たちが、それ自体として、生き生きと動き出す、というような感じではないかと思います。
3.現実世界の「しまう」と「響く」
(1) ささやかな「しまう」と「響く」なら、実現できる
「しまう」と「響く」は、フィクションであり、ファンタジーです。でも、この現実世界を生きる普通の一般人でも、「しまう」と「響く」を実現することは可能だと思います。
もちろん、春田家の皆さんのように「しまう」ことはできませんし、春田家の皆さんのように「響く」こともないでしょう。でも、それよりもずっとずっとささやかな「しまう」と「響く」なら、不思議な能力を持っていない一般人でも、十分、実現できます。
まず、「しまう」は、丸ごと暗記なので、普通のことです。枕草子の「春は曙」を中学校で暗記した人は数限りなくいるのではないかと思いますが、これも「しまう」です。
これに比べると、「響く」は、若干特殊能力っぽいですが、それでも、オカルト的なことではありません。たとえば、ある漫画にのめり込んで夢中になって読んでいる時期に、その漫画の一節が自分の中で自動再生されるようなことがたまにあります。これはささやかな「響く」だと言えます。また、知的好奇心を刺激される本を読んで、ブログ記事などを書きたくなって、頭の中で文章が勝手に流れてくるような感覚を覚えることがありますが、これもささやかな「響く」です。
(2) 「しまう」と「響く」という概念を持っていると、体験の意味が変わる
さて、この「しまう」と「響く」ですが、この概念は、私に、すごく大きな変化をもたらしました。
「しまう」という行為は、何らかの体験を、評価を加えず、そのまま丸ごと自分の中に入れる、ということです。文字で書かれたものを読むなら丸暗記ですが、それ以外のどんな体験でも、その体験を、評価を加えずにそのまま丸ごと自分の中に入れるなら、それは「しまう」です。
「しまう」は、評価を加えずにそのまま自分の中に入れているだけなので、何ら生産的なものではありません。
でも、「しまう」が積み重なれば、いつか「響く」ときが来ます。「しまう」ときには意味もわからず価値も生み出さなかった体験が、自分の中にしまわれることによって、同じく自分の中にしまわれた他の体験と何らかの化学反応を起こし、いつか「響く」ときがきます。
「しまう」を続ければいつか「響く」、ということを信じることができれば、「しまう」ことに対する気持ちが、とても前向きになれます。「しまう」とは、要するに、自分の体験全てなので、「しまう」ことに前向きになれるというのは、全ての体験に対して前向きになれる、ということです。
「しまう」と「響く」という概念は、体験の意味を、大きく変えてしまいました。
4.おわりに
「大きな引き出し」は、「しまう」と「響く」を、春田家の皆さんの不思議な能力という形で描いています。でも、「しまう」と「ひびく」は、私たちごく普通の人間が、何かを体験するとき、したときに起きることの、本質をうまく捉えているんじゃないかと思っています。
ともあれ、「大きな引き出し」は、物語としてとてもおもしろいです。短編なのでさらっと読めちゃいますが、それでありながら深みも感じる上、読後感はさわやかです。よろしければ、読んでみてください。
集英社
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